笹川流れを桑川駅から今川駅まで歩いてきました。大雨警報らしくずっと降っていた大雨も止み、対岸には日本海に浮かぶ粟島が見えてきました。

今川駅まで歩く途中、大雨すぎて道路の上の屋根から雨水がえらく落ちてきた。
今川駅のホームから見た粟島。1時間でもいいから早くこうなってほしかった。

今川駅からは再び羽越線に乗り、山形県・鶴岡と酒田の間にある余目駅から陸羽西線に乗換え、新庄駅まで行き、そこからは奥羽線(山形線)に乗換え、山形。

今川駅から乗った国鉄時代に製造された列車。

本日の宿泊は山形駅までの温泉付きのビジネスホテルです。今川から山形まで基本的には改札を出なかったので、沿線に関係する歴史を紹介します。

鶴岡です。鶴岡には江戸時代、庄内藩がありました、庄内藩の大名は酒井氏です。

この酒井氏、関ヶ原の戦いの前から徳川の家来だった譜代大名(要は徳川が天下を取り江戸幕府を開く前から家来だった)です。しかもその譜代筆頭(とりわけ徳川の家来だった人たちの中でも偉いひと)です。しかし、江戸幕府滅亡の原因を2回も作りだしてしまったのは、この庄内藩です。

1回目はペリーが日本に「鎖国をやめなさーい、開国しなさ~い」的なことを言ってくる10年ほど前。時は徳川11代将軍・家斉の時代でした。

wikipediaより。みなさまお馴染みのペリー。おねえことばだったらしい。英語にもおねえことばがあるらしい。

この家斉、こどもが50人以上いました。そういう趣味のひとだったんでしょう。だからこの時代の江戸幕府の重要事項は、野球チームなら5.5組作れるくらいにたくさんいる家斉のこども達をどこに養子に出すか、あるいは嫁がせるかでした。つくづく平和な時代です。その中のひとりが埼玉・川越藩に養子に出されることになったわけですが、川越藩の大名は借金をしまくり大変な状況でした。

そこで幕府は川越藩の大名を庄内藩に移す計画を立ち上げたわけです。庄内藩は米がたくさん取れるし、商業も盛んだったので、収入がよかったわけです。だから川越藩の大名には庄内藩に移って借金を返済してもらい、庄内藩の酒井氏は新潟・長岡藩に移ってこれまで貯めた金で新潟港の防衛を強化してもらい、長岡藩の大名は川越藩に移ってもらうことにしました(三方領地替え)。

wikipediaより。三方領地替えのときの庄内藩主・酒井忠器。

この計画に対し、庄内藩は農民や町人まで動員して猛反対運動を展開します。結局、あまりの反対っつぷりに幕府はこの計画を撤回せざるを得ませんでした。これで幕府の権威はガタ落ち。「なんだ幕府の言うこと、聞かなくてもいいんだー」的な雰囲気が日本中に充満していきます。そんな中で、ペリーは日本に来たわけです。幕府はこの非常事態にリーダーシップを発揮できませんでした。日本国内は混乱状態に陥ります(別に庄内藩だけのせいではありませんが、話しが長くなるので省略)。

この辺で、移動中の景色① 陸羽西線(余目駅)。

そして2回目は幕府がいよいよ滅亡するとき。時の将軍は15代・慶喜でした。江戸幕府の最後の将軍です。

ザ・ラストジェネラル・徳川慶喜

このころは薩摩藩(鹿児島)と長州藩がタッグを組み(薩長同盟)、幕府をつぶそうとありとあらゆる陰謀を企てていました。そこで慶喜は肩透かしを喰らわせようと、「わかったよ、政治をする権限を天皇に返すよ」と宣言(大政奉還)をします。なにせ天皇とその周りの朝廷という組織がまともに政治をしたことなんて、1185年の鎌倉幕府成立以降、ほとんどないわけです。大政奉還は1867年ですから、約700年。その間、源、北条、足利、織田、豊臣、徳川と言った武士がずーーーーーっと政治をしてきたわけです。

この辺で移動中の景色② 新庄駅の2番線と4番線と5番線の間。新庄駅はちょっと複雑なつくりになっています。ちなみに3番線はななめ右後ろ。

だからここで大政奉還したら逆に天皇が困るだろうと、慶喜は考えたわけです。天皇が困ったら、薩摩や長州の立場が悪くなります。それが慶喜の狙いでしたし、実際その通りになりました。慶喜は大坂で事の次第を観察しつつ、京都で天皇や朝廷への交渉は、慶喜の味方である福井藩や名古屋藩が行いました。

薩摩はなんとか挽回しようと、慶喜を挑発し、江戸(現在の東京)で放火事件を次々と起こします。しかし慶喜は挑発には乗らず、冷静に対処しようとしました。しかしその慶喜の考えを知ってか知らずか、いまの東京の三田のNECやセレスティンのあたりにあった薩摩藩の屋敷を攻撃したのが、庄内藩です。これがきっかけとなり、大坂にいた慶喜の味方であるはずの福島・会津藩と三重・桑名藩は京都に攻め上がります(鳥羽・伏見の戦い→戊辰戦争)。結局、慶喜は江戸へ船で逃げ帰り、江戸幕府は完全に消滅します。

この辺で移動中の景色③ 新庄発山形行きの普通列車。

その後、東北地方にあった各藩は会津藩や庄内藩への重い処分撤回を求め、悲惨な戦争状態に突入します。会津藩や仙台藩、米沢藩など東北地方の有力な藩が明治新政府軍の激しい攻撃で次々と降伏していく中、庄内藩はヨーロッパから最新の武器を輸入し、明治新政府軍を撃破していきますが、自前で最新の武器を作ることができる佐賀藩が秋田に上陸してからは状況が変わり、とうとう降伏します。

その後庄内藩には重い処分が下されるはずでしたが、薩摩藩の西郷隆盛が軽い処分にするように命令し、軽い処分で済んでしまいました。なにせ西郷からしてみれば、幕府を倒すきっかけを2回も作ってくれたのは庄内藩です。このあと、日本は富国強兵・殖産興業を合言葉に、ヨーロッパに追いつけと近代化をしていくわけです。さて、夜になりようやく山形駅へ到着しました。明日は山寺、仙台を経由し、東京へ帰ります。