山形駅前のビジネスホテルで1泊しましたが、朝、予定より早い時間に目が覚め、朝風呂までしましたが、かなり時間に余裕があったので、山形駅の北側にある霞城公園に行きました。山形城の別名を霞城というそうです。知りませんでした。・・・というか山形城って、だれの城だったんだ??山形城に関する基礎知識が一切なかったので、勉強も兼ねて行ってみることにしました。

昔の山形城はこんな感じだったそうです。

結論から言えば山形城を建てたのは、最上氏という一族。なんか聞いたことはあります。その最上氏は元を正せば、室町幕府将軍家・足利氏につながる一族だそうです。つまり、名門だったそうです。その最上氏が、戦国時代になるとそのまま山形を拠点に戦国大名になります。

東北地方の戦国大名と言えば伊達氏、とりわけ伊達政宗が思い出されますが、伊達政宗のお母さんは最上氏から嫁いできたひとだったそうです。「あれ、政宗、片目が見えなかったのって、母親から毒を盛られたからじゃなかったっけ?」

調べてみたら、片目しか見えなかったのは天然痘と言う感染症が原因だったそうです。母親から毒を盛られた、と言う話しもあるようですが、事実かどうかははっきりしていないそうです。ただ、政宗は母親とはかなり仲が悪かったというのは事実だそうです。

話しを戻しますが、なにはともあれ最上氏は豊臣秀吉の関東侵略(小田原攻め)の際、豊臣秀吉の下に駆けつけ、秀吉から「山形の領土は引き続き最上氏が治めよ」と認められます。

霞城公園の正面玄関・二の丸東大手門
奥羽線の線路が脇を通ります。春は桜がきれいで、列車も速度を落として通過してくれるそうです。

その後なんだかんだあって、関ヶ原の戦いのときには徳川方で参戦。山形のとなり、新潟の戦国大名だった上杉氏を撃破します。強かったんですね、最上氏。その功績が認められ、現在の山形県の大部分を領土として認められ山形藩・57万石の大名になります。57万石というのは、徳川以外で最大の大名だった金沢の前田氏が103万石、鹿児島の島津氏が92万石、仙台の伊達氏が62万石だったのでかなり大きな大名だったわけです。さて、その57万石を認められた山形藩としての初代藩主は最上義光と言います。

最上義光像を正面から見た感じ。馬しか見えない。
なので、横から見た最上義光像。遠くてよくわからない。

このひとが死んだあと、息子が跡を継ぎますが、その息子も3年くらいで急死。その後、だれが山形藩主を継ぐかでお家騒動が勃発します。死者まで出る激しい有り様で、江戸幕府は事態を重く見て、最上氏は処分されてしまいます。処分内容はいまの滋賀県・近江大森藩1万石への改易(要は左遷)。最上氏としての存続は許されましたが、ぱっとしない大名に成り下がってしまいました。身内同士の争いというのは、なんとも醜いものです。